③
「ゆきえ。今日はどうしてたん?ゆっくりできた?」
夕飯を食べながらコバくんが聞く。
「え?うーん…新しく求人誌が出てたから買ってみたんやけどな、あんまりピンとけぇへんかったわ。なかなかないんやなぁ。バーテンダーって。」
コバくんが毎晩のように聞く『今日はどうしてたん?』の言葉が怖い。
だって「何度も食べて吐いて泥のように倒れて死にたくなってた」がほんとのことなんだから。
私は『ほんとのこと』をまた今日も隠して笑いながら話している。
毎日毎日嘘ばかりだ。
「まぁ焦らんと。ゆきえが『ここだ!』っていうところが絶対見つかるよ。」
コバくんは私が嘘をついてることなんて微塵も疑っていないだろう。
ものすごく嬉しそうにニコニコ笑ってるコバくんを見て、ちょっとうっとおしいと感じている自分がいる。
私のことを何にも知らないくせに、と心の片隅で悪態をついている。
「うん。そうやね。いつもありがとう。」
私はそんな心の片隅の気持ちを見ないようにして、ニコニコと笑い返しながらお礼を伝えた。
感謝はしている。
ここでこうやって暮らせているのはコバくんのお陰だし、今日も死なずにいられて落ち着いてビールが飲めるのもコバくんの存在のお陰だと思うから。
「俺な、ゆきえが毎日こうやって『おかえり』って迎えてくれるのが嬉しくてしゃーないねん。もうお店で辛い思いしなくてええし、もうK氏に怯えなくてええし…なんか…よかったな!って思うねん!」
コバくんはごはんを口にかきこみながら、照れくさそうにそう言った。
「え…?あぁ…うん。そうやね!うん。そうやんなぁ。んふふふ。」
照れくさそうに「よかったな!って思うねん!」と言ったコバくんの仕草や顔がおかしくて笑ってしまった。
コバくんは私の思いとは関係なく、そんなことを思っているのかとちょっと驚いた。
私は毎日焦ってる。
早く私の居場所を作らなければと焦っている。
そして私は私がこの世界に存在してもいいという証拠を集めなくてはと焦っている。
必要とされる人にならなければ!と。
「美味しいなぁ!ゆきえのごはんは美味しいなぁー。今日のお弁当も絶品やったわ!いつもありがとう!」
コバくんは満面の笑みで、全身で嬉しさを表現しながら私にそう言った。
「ふふふ。そう言ってくれてありがとう。よかったわぁ。」
ちょっとだけ私がこの世界にいてもいいんだと言われたような気がして嬉しくなる。
虚しさをかなり伴った嬉しさだけれども。
「ゆきえ。俺…ゆきえが1人になりたいときは実家帰るしちゃんと言うてな。俺、毎日ここに帰って来たいけどそれがゆきえの負担になったら嫌やから。あ!俺家賃半分払うつもりやから!来月の分、半分払うつもりやから!あ!だからといって毎日俺も一緒に住むから!って主張したいわけやないんやで!ちゃうで!あの、えと、その…俺がそうしたいねん!…あかんか?…」
コバくんはしどろもどろになりながら勢いよく私にそんなことを言った。
「え?あー…ありがとう。えと…でもそれじゃあコバくんに悪いわ。コバくんが損してばっかりに感じてしまうわ。悪いわ。」
私はコバくんのそのまっすぐさがわからない。
コバくんになんのメリットがあるっていうんだろう。
ただ毎日食べ吐きをしてドロドロになっているクズ女にそんなことを言うなんて。
「損なんてしてへんわ!毎日ゆきえとおりたいだけや。あ!いや、毎日おれんでもええねんで。だから、その、えーと…いや、ほんまは毎日ゆきえとおりたいんやけどな。あれ?なんやったっけ?えと…あ!そうそう!損てなんやねん!俺がそうしたいの!…させてくれへん…?」
正直いって来月の家賃を折半してくれるのは助かる。
このまま仕事がまだ決まらないかもしれないから。
私は残り僅かな貯金と所持金を食べ吐きに使ってしまっている最悪な女だ。
食べ吐きはお金がかかる。
食べて吐き出すというまったく無意味なことに私はじゃんじゃんお金を使ってしまってるのだ。
「あー…そう…なんやぁ…ありがとうな。コバくんがそうしたいなら…。ほんまにありがとう。」
私はまたコバくんに後ろめたさを持つことになる。
そしてもし1人になりたくても「今日は1人になりたい」なんて言えなくなるんだろう。
「ほんま?!よかったぁー!ありがとう!あ、そやけどな、ほんまに1人になりたいときは言うてや。ちゃんと言うてくれなきゃ嫌やで。俺…毎日おりたいから言うてくれなわからんもん。お弁当も無理せんでええんやから。もちろん夕飯もやで。俺、ゆきえが無理すんの嫌やもん。」
コバくんは自分からお金を払いたいと言って、私が受け取ると言ったら「ありがとう」と言った。
この人は頭がおかしいのかもしれない。
いや、頭がおかしいのは私か。
「うん。わかった。あ、ビールもう一本飲む?それとも違うものにする?」
私はこの会話を早く終わらせたかった。
なんだかいたたまれなくて。
「うん。もう一本飲もうかな。ありがとう。」
コバくんは毎日優しい。
毎日ニコニコしながら私を見ている。
「ゆきえとおるのが一番楽しい!」と無邪気に言い続ける。
ここ塚口に引っ越してきてからの日々、私はコバくんとしか会話をしていない。
毎日何人ものお客さんと会話をして、富永さんや理奈さんとも楽しく会話をしていたのが遠い昔のことのように感じる。
当たり前の話しだけれど、SEXもコバくんとだけ、数日間に一回のペースでしているだけだ。(しかもとてもあっさりしているSEXだ。)
毎日何人もの男性とSEXをしていたのが嘘のようだった。
「ゆきえ。毎日どない?楽しい?身体楽になった?」
プシュッと缶ビールのプルトップを開けながらコバくんが無邪気に聞いた。
きっとコバくんはソープランドの仕事から解放された私がのびのび生活していると思っているんだろう。
多少の焦りはあるかもしれないけれど、あの仕事とK氏からは解放されたことを喜んでいると思っているんだろう。
「あー…うん。そうやね。毎日緊張せんでもええし、アソコも痛くならへんしな。それにK氏からも連絡がくることはないし。まぁはよ仕事決めななぁいう焦りはあるけどな。でも身体は楽になってるわ。うん。」
私は「あはは」と笑いながら軽く答えた。
膣が痛くならないのは確かに楽だ。
毎日何回も吐きそうになるほど緊張していたお客さんの出迎えもなくなったのはよかったのかもしれない。
でも。
楽しくは…ない。
私はソープランドを清々しい気持ちで卒業したのに、K氏にも私なりにけじめをつけたのに、やっぱり『楽しい』がわからないでいた。
私を苦しめていたことから解放されたはずなのに、もしかしたらあの時よりも今の方が苦しいんじゃないかと思うような毎日を過ごしていた。
毎日が息苦しい。
私は一生この狭い部屋から出られないのかもしれない。
そしてコバくんとしか一生会話できないのかもしれない。
雄琴のソープランドでどん底に落ちるかもしれないと思っていたのに、今この塚口の狭いマンションの一室の方がどん底のような気がしている。
「ゆきえが楽しく働けて勉強ができる店があるといいなぁ。ゆきえのバーテンダー姿みたいわ。そんでゆきえにお酒作ってもらうねん。楽しみやなー。」
「あはは。うん。はよ見付けなな。」
笑いながらそう言ったけど見つかる気がしない。
こんなどん底な毎日を送っている私に、そんないい話しがあるとは思えない。
そう思っている私をしり目に、コバくんはニコニコと未来を楽しそうに語っていた。
「どんなカクテル作りたいん?あ!俺にはどんなカクテルが似合いそうですか?名バーテンダーさん!」
この人はほんとに純粋な人だ。
なんの悪気もない。
なんの疑いもない。
ただただ無邪気だ。
なぜこんなにも幸せそうな顔ができるんだろう。
「えー!まだわからんよぉ。うーん…そやなぁ…コバくんはガブガブ飲んでしまうからショートカクテルは似合わんな。ロングしか作れんやろー。ていうかカクテル飲まんやんか!」
「えーーー!ゆきえが作ったのなら飲むー!絶対作ってや!絶対美味しいに決まってるけどな。あー楽しみやなー。」
私は心にどす黒い闇を抱えながら「あははは」と笑う。
絶対にそのどす黒い闇を見せないように。
見られたら終わりだ。
この世界に存在してもいい唯一の理由が消えてなくなってしまうから。
私は『死にたい』と切に思いながらも『生きる理由』を必死に掴もうとしている自分が滑稽でますます嫌いになっていっていた。
つづく。
前回のお話はこちら↓
② - 私のコト第2章 ~小娘有里のその後 バーテンダー編~
最初から読みたい方はこちら↓
第2章のはじまりのご挨拶 - 私のコト第2章 ~小娘有里のその後 バーテンダー編~
ソープ嬢編から読みたい方はこちら↓
②
目をうっすらと開けると、目の前にはゆがんだホログラムのような風景が見える。
ぼやけた視界。
まるで全てが幻影のように見える。
今私は眠っているのか起きているのかまるでわからない。
この世界は全てが幻影でできているんだと思わせる。
ぼんやり見えている風景はまぎれもなく自分の今の部屋だということはわかっている。
でも全てがホログラムのようだ。
頬に絨毯の感触がある。
すぐ目の前にはぼんやりとテーブルの足が見えている。
スッと目線を部屋の入口にやると人影が見えた。
誰だ?
え?
誰だ?
「…誰?…」
小さな声で呟く。
あまりにも力が入らなくて声も少ししかでない。
黒い影がぼんやりと部屋の入口から入って来る。
誰?
誰なの?
ぼんやりとした視界はぐにゃりと歪み、身体は相変わらず泥のようで動けない。
あぁ…
もう目も開けていられない。
黒い影が近づいてきた。
あぁ…
もうダメだ…
はっ!
…夢だったのか…
目の前にはさっきと同じようなぼんやりとした視界が広がっている。
ぐにゃりとした自分の部屋。
やっぱりホログラムのように見える。
頬の絨毯の感触もさっきと同じだ。
すぐ目の前にはさっきとまったく同じようにぼんやりとテーブルの足が見えている。
横に向けていた身体を仰向けに変えるとぐにゃりとした天井が目の間に広がった。
ぐにゃ~んとゆっくり歪んでいく天井。
朦朧とする頭。
身体が重い。
「ゆきえー」
誰かが呼ぶ声がする。
「え?」と小さな声で呟く。
小さな声しか出ないから。
「ゆきえー。早くしなさーい。」
お母さんの声だ。
なんで?なんでお母さんがここにいるの?
部屋の入口に目をやると誰もいない。
ただただぼんやりと入口の先のキッチンがなんとなく見えているだけだ。
「ゆきえー。どうしたのー?」
やっぱりお母さんの声だ。
どうして?
ここに私が暮らしていることを知っているはずがないのに。
あぁ…
身体が動かない。
お母さんの呼びかけに答えなきゃ。
どうしてここにいるのかを聞かなきゃ。
そしてごめんなさいと謝らなければ。
お母さん、ごめんなさい…
はっ!
…また夢…?
目の前にはさっきとまったく同じゆがんだ天井が見える。
まぎれもなく私の部屋でさっきとまったく同じ場所で仰向けに寝ている。
ぐにゃりと回転し始める天井。
ウワンウワンと鳴る耳鳴り。
めりめりと床に身体が沈み込んでいきそうだ。
溶ける。
身体が溶けていく。
このまま溶けてなくなっていくのかもしれない。
あぁ…
溶ける…
溶ける…
身体がドロドロになっていく…
はっ!
…また夢…
私はさっきとまったく同じ体勢で天井を見上げていた。
「…はぁ…」
ゆっくりと身体を起き上がらせる。
身体が重い。
頭が痛い。
喉が渇いている。
さっきお腹の中のものを全部吐き出したんだから当たり前のことだ。
盛大な食べ吐きをした後は必ずこういうことが起きる。
夢なのか現実なのかわからない、どろりとした世界を体験する。
まぎれもなくこの私の部屋で、同じ場所で寝ている姿で何度もおかしな体験をするのだ。
ドラッグをやっている人はこういう体験をしているのかもしれないといつも思う。
胃がパンパンになるまで食べ物を詰め込み、すぐに吐き出すという行為は脳の機能をおかしくさせるんだろうなぁ…とぼんやりと考える。
食べ吐き後のこの感じが割と好きだったりする自分に嫌悪していた。
身体がとてつもなく怠い。
頭がガンガン痛む。
さっきまでのドロドロと溶けていってしまいそうな感覚はもうなく、ただただ身体が怠くて頭が痛む。
「…ふぅ…」
私は重い身体をなんとか立ち上がらせて冷蔵庫に向かった。
冷たく冷えたお水をガブガブと飲んだ。
これからしばらくの間は空腹を感じずにすむことを私は知っている。
胃が機能しない時間だ。
ただ、この時間はほんのわずかだということも知っていた。
間もなくするとお腹からぐぅという再び地獄のはじまる音が鳴り始める。
「…バーテンダーの募集は…」
倒れこむ前に開いていた求人誌のページをまた淡々と覗き込む。
第2ラウンドのゴングが鳴り始める前にちゃんと見なければ。
求人誌のナイトページのコーナーをくまなく見る。
バーテンダーの求人はだいたいどこの店も経験者を募集していた。
そして私が望んでいるようなれっきとしたバーの求人はなかなかなく、ダイニングバーやカフェバーのようなところの求人がほとんどだった。
「経験者か…」
私はちゃんとお酒の勉強もしながらバーテンダーをやりたいと思っていた。
お酒の歴史もカクテルの逸話もちゃんと知りたい。
もちろんカクテルを作る技術も磨きたい。
さっきまで地獄のような時間を過ごしていたことをすっかり忘れたかのように、私はバーカウンターの中で華麗にシェイカーを振る自分の姿を想像していた。
求人誌のバーテンダー募集は毎回少なく、だいたいがフロアレディの募集であふれていた。
「…今回もなしかぁ…」
自分が思うような店の募集が見当たらない。
ソープランドを辞めて10日以上が経つ。
私の郵便貯金はもう残り僅かで、お店を辞める時に頂いた餞別が13万円ほど。
残金が心許ない金額になり、しかも思うような働き口がなかなか見つからない。
気持ちが焦り、K氏に渡した700万円を惜しかったとすら思い始めていた。
トゥルルルル…
トゥルルルル…
コバくんがひいてくれた家電が鳴る。
コバくんがなぜか持っていた電話回線があり、携帯電話を一旦解約した私の為に家電を設置してくれたのだ。
「もしもし?」
ボーっとした頭で電話に出る。
「あ、ゆきえ?どないしてる?」
電話の相手はコバくんだ。
コバくんはこの塚口に引っ越してきてから毎日お昼に電話をくれるようになった。
友達も誰もいない私を心配してのことだ。
「あ、うん。まぁなんかいろいろやってるわ。」
いろいろ?
ただ食べて吐いてドロドロになって求人誌を眺めただけだ。
「そうか。ゆきえ焦らんとな。ゆっくりでええやんか。お金はなんとかなるよ。ゆっくりできてるんか?休めてないやろ?」
コバくんは毎日私にそう言ってくれる。
『焦るな』と。
『ゆっくりしろ』と。
「あー…うん。わかってる。そうやね。焦ってもしゃーないしね。いつもありがとう。」
「うん。俺、ゆきえがゆっくりしてくれるのがええわ。すごいことやってのけたんやから、ちょっとくらいゆっくりしたってええやろ?」
「うん。うん。そうやね。ありがとう。わかった。」
「あ!なんか呼ばれとるわ!ごめん!じゃまた夜な!今日は…多分19時過ぎやと思うわ!はよ会いたいわぁ。ゆきえ、大好きやで!」
「うん。ふふふ。ありがとう。待っとるわ。」
「うん!ほなな!ゆきえー!」
「わかったわかった!あははは!」
ガチャ。
「…ふぅ…」
焦るな。
ゆっくりしろ。
のんびりでいい。
私が一番怖い言葉。
ゆっくりするってどうやるんだろう?
焦るなってどういうことだろう?
のんびりってなんだろう?
私はいてもたってもいられなくなり、お財布をつかんで外に出た。
「…夕飯の買い物に行くだけだから。」
誰に言い訳をしてるんだろう。
1人でブツブツと呟きながらマンションの階段を降りる。
「ぐう」とお腹の音が鳴り、私は絶望的な気持ちになった。
「…夕飯の買い物をするだけ。それだけだから。」
口ではそう言いながら、頭の中には菓子パンやカツ丼やパスタやケーキのことを考え始めている。
「買わないよ。絶対買わないんだから。」
塚口駅前にあるスーパーに向かいながら、ブツブツと呟く。
絶対に買ってしまうことを知りながら。
私の口から出る言葉と頭の中で思っていることはいつもちぐはぐだ。
口から出る言葉と行動もちぐはぐだ。
気付くと私はスーパーのレジに並んでいた。
カロリーの高そうな食べ物で山盛りになったカゴを、どんとレジの台に乗せてソワソワと会計を待っていた。
早く帰りたい。
早くこの食べ物を口いっぱいにほおばりたい。
そうしないと大変なことになる。
私が最悪で無為で存在になんの価値もないことを再確認してしまう。
そして私の未来が絶望的だという証拠を次々と見つけてしまうかもしれない。
早く。
早く。
私は急いでお金を払って駆け足で部屋に戻った。
部屋のドアを開けるとすぐに2ℓのペットボトルにお水をたっぷり入れ、菓子パンの袋を引きちぎり口に詰め込んだ。
第2ラウンドのゴングが大きく鳴り響いた。
どろどろの状態で目を覚ました私はまた何度も幻覚を見、幻聴を聞いた。
そしてなんとか開けた目で時計を見ると17時になっていた。
「…はぁ…」
また一日をこうやって過ごしてしまった。
もう死んだ方がいいんだろう。
こんなクズはこの世にいない方がいい。
「…さ…夕飯作らなきゃ…あとお風呂掃除と掃除機もかけて…」
コバくんが帰ってくる。
だから今日は死ねない。
夕飯を作って掃除をしてお風呂を沸かして待っていることだけが、私のまだ生きていてもいい理由のような気がする。
お風呂掃除をして掃除機をかけていると、段々自分が人並みな女のような気持になってくる。
ボロボロだった身なりを整え、お米を砥いでいると、まるで自分が『普通の女』になったような錯覚に陥る。
ただのクズなのに。
ボーっとした頭のまま、私は夕飯の献立を考え黙々と料理にとりかかる。
今の私はコバくんが帰ってきてくれるから生きているようなものだった。
このままコバくんが帰って来なかったら私は何度あの地獄の時間を過ごすことになるんだろう。
料理に没頭し、気づくと18時半になっていた。
「あ…先にお風呂に入ろう。」
私は料理をほとんど作り終え、お風呂の支度をして狭い湯船に身体を沈めた。
今日もどうしようもない時間を過ごしてしまった。
明日こそはちゃんとしたい。
こんなことやっていたらどんどんダメになる。
早く仕事を決めなければ。
そして早く自分の居場所を見つけなければ。
湯船につかりながら、私は今日の猛烈な反省と明日の決意を心に誓う。
こんな誓いなんてなんの意味もないことを知りながら、明日こそはと強く思う。
「…うぅ…うぅ…ごめんなさい…ごめんなさい…」
誰に謝ってるんだろう。
コバくんに?
親に?
K氏に?
慕ってくれたみんなに?
「うー…ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」
食べ吐きの症状が明らかに悪化している。
罪悪感も日に日に増す。
早く死にたい。
生まれてこなければよかった。
何度も何度もそんな思いが私を襲う。
「うーーー…」
部屋にはまだ私1人なのに、しかもお風呂の中なのに、声を一生懸命殺して泣く。
泣き声すら大きく出してはいけないような気がして。
「ただいまーーー!!!」
その時玄関の方から元気な大きな声が聞こえてきた。
「ゆきえー?お風呂-?ただいまーーー!!」
明るい元気な声。
私は急いで涙を拭き、元気そうな声を頑張って振り絞る。
「おかえりーー!お風呂先に入っちゃったー!ちょっと待っててー!」
「うん!ゆっくり入ってねー。覗いていいーー?」
「あははは。やめてっ!」
「えー?ダメー?あははは。」
「ダメだよ!あははは。」
私は「あははは」と笑いながら涙を流していた。
今日の私の姿をコバくんはまるで知らない。
知らないから好きでいてくれるんだ。
絶対に知られてはいけない。
隠し通さなければ。
「ゆきえーお腹空いたよー!」
「ちょっとー!そんなこと言われたらゆっくり入ってられへんやんかー!」
「あははは。ごめーーん!はよ顔みたいわー。でもゆっくり入ってやぁ。」
「アホか。あははは。」
さあ。
コバくんが知っている私の顔にならなければ。
さっきまでの私の姿を微塵も感じさせないように今夜も頑張ろう。
つづく。
続きはこちら↓
③ - 私のコト第2章 ~小娘有里のその後 バーテンダー編~
前回のお話しはこちら↓
① - 私のコト ~小娘有里のその後 第2章バーテンダー編~
ご挨拶はこちら↓
第2章のはじまりのご挨拶 - 私のコト ~小娘有里のその後 第2章バーテンダー編~
第1章ソープ嬢編から読みたい方はこちら↓
①
「ゆきえー。行ってきまーす!」
「うん。いってらっしゃい。頑張ってね。」
「え…と…今日は…どないしたらええ…?帰って来てもええのん…?」
コバくんが遠慮がちに聞く。
「え…とぉ~…うん。…ええよ。待ってる。」
迷いながら「ええよ」と答える私。
夜になると淋しいから。
「ほんま?!やった!!ありがとう!ゆきえ、ありがとう!!じゃ!いってきまーーーーす!!ゆきえ、ゆっくりな。焦らんとな!お弁当もありがとう!!じゃ!!」
満面の笑みで玄関を出ていくコバくん。
相変わらずよく懐いている子犬のようだ。
「気をつけてー!」
バタン。
「ふぅ…」
ドアが閉まると同時に溜息をつく。
今日も帰って来ていいと言ってしまった。
だから夕飯のことを考えなくてはいけない。
「…どうしよっかなぁ…」
時計を見るとまだ8時半だ。
私はこれからの時間の過ごし方を頭の中で組み立てる。
「まずお茶碗を洗って…それから求人誌を見て…それから…」
滋賀県の雄琴からここ塚口に引っ越してきてもう10日ほど経つ。
引っ越して来た当初はコバくんとは一緒に暮らさないつもりでいた。
私は1人の時間が持てることにワクワクして、夕飯の支度やお弁当から解放されることを喜んでいた。
が…
引っ越し当日、荷物を降ろし、もろもろの片付けが終わった時には夜になっていた。
コバくんは淋しそうな顔をして「今夜だけ泊まったらあかん?」と聞いた。
私は疲れた淋しそうな顔をしたコバくんを帰すことができず、「今夜だけええよ」と泊めてしまった。
それからもう10日。
その10日の間、私が1人で朝まで過ごしたのはたった1日だけという情けない毎日を送っている。
仕事もまだ決まらず、私は不安な毎日を過ごしていた。
この1人になる時間が曲者だ。
まだ今日は始まったばかりで私の頭の中は今日の予定を立て始めているけれど、この予定通りに1日を過ごせたことが1度もない。
「お茶碗を先に洗ってしまおう。」
独りごとを言いながらキッチンに立つ。
新しい部屋のキッチンは玄関を入ってすぐ右側に位置している。
5畳ほどのダイニングキッチンの床はフローリング調のクッションマットが敷いてありなんだか安っぽい作りだ。
前のお部屋と違ってキッチンに窓もなく、とても暗い。
昼間でも電気を点けなきゃならないくらい暗かった。
このキッチンに立つと暗い気持ちが増す。
頭上の蛍光灯の明かりが寒々しくて、今の私の不安な気持ちをあおる。
カチャカチャと無言でお茶碗を洗いながら、むくむくと湧いてくる衝動を無視しようと懸命に頑張る。
口を一文字に閉め、なんとかこの衝動が治まらないかと一点を凝視する。
「…ふぅ…」
お茶碗を洗い終え、タオルで手を拭く。
「さてと…新しい求人誌が出ていないかコンビニに見に行こうかな…」
独り言を言いながら、私は口にした言葉とは違う行動に出はじめる。
頭では求人誌を見に行こうとしているのに、手は冷蔵庫を開けている。
そして目で食べ物を物色しはじめる。
小さな炊飯器にごはんが炊けていることは知っている。
そして昨日買ってきた6枚切りの食パンが5枚残っていることもわかっている。
昨日食べたくてもガマンした唐揚げも冷蔵庫の中に見つけてしまった。
頭の中ので考えていることなかったことしたい。
今考えていることをサッと消し去りたい。
「納豆と…スープと…」
ちゃんと朝ご飯を食べよう。
きちんとした朝食を。
ごはんと納豆とスープとサラダ。
コバくんに作ったお弁当の残りのおかずを数品。
私はテーブルにランチョンマットをきちんと敷いて、朝ごはんを綺麗に並べて手を合わせた。
「いただきます。」
今日こそはちゃんとできますように。
ちゃんと美味しく朝ごはんが食べられますように。
そして朝ごはんを食べ終わったら私の頭の中の予定通りに過ごせますように。
切実な思いで朝ごはんを食べる。
「美味しいなぁ…」
一口目の納豆ごはんがとてつもなく美味しい。
スープを含むと温かくてほっこりする。
「はぁ~…」
わざとらしく“美味しい”を全身で表現する。
それもこれもこの後にやってきそうな予感がする地獄の時間をなんとか回避するためだ。
「美味しいなぁ…」
何度も何度もわざと口にする。
今日こそはあの時間がやってきませんように。
納豆ごはんを半分ほど食べ、スープを飲み干し、お弁当の残りのおかずを何口か食べた。
さっきまでの空腹が満たされてきてしまった。
食べているんだから当たり前の話しだ。
空腹が満たされてきてしまった。
あぁ…
空腹ではなくなってきてしまった。
目を見開き、もぐもぐと残りの納豆ごはんとおかずを食べる。
口を動かしながら、私は次に食べるものをいつにまにか頭の中で考え始めていた。
まずはお水を飲まなければ。
ガブガブと飲んでおかなければあとで辛い目にあう。
口に入っているこれを飲み込んだら空いている2ℓのペットボトルにお水をたっぷりと入れて飲まなければ。
それからさっき見た唐揚げをレンジで温めて、炊飯器に入っているごはんをどんぶりに全部入れてこよう。
それからそれを食べている間にオーブントースターで食パンを焼いて次の準備をしておこう。
バターは…さっき冷蔵庫にあったのを見た。
山盛り乗せよう。
それから…
気づくとまた始まっていた。
いつのまにか始まっていた。
いつもの地獄の時間が。
私は“ちゃんとした朝ごはん”を食べ終わり、空いた食器を急いでキッチンに運び、大急ぎでお水をがぶ飲みした。
後で困らないように。
「はぁはぁ…」
お水でべちゃべちゃになった口の周りを手の甲で拭い、冷蔵庫から数個の唐揚げを取り出しレンジにかける。
ごはんを山盛りによそい、食パンにバターを山盛り乗せてオーブントースターにいれた。
急がなきゃ。
急いで食べ物を詰め込まなければ。
そうしないと最初に食べた“ちゃんとした朝食”の消化が始まってしまう。
消化させるわけにいかない。
だって消化してしまったら太ってしまうじゃないか。
私は『今の私はきっと鬼の様な形相をしているんだろう』とうっすらと思いながら、目を見開き口の中にごはんを詰め込んだ。
口いっぱいに詰め込んだごはんが美味しい。
温めた唐揚げをまだごはんが入っている口の中に押し込む。
唐揚げとごはんが口の中で混ざってすごく美味しい。
喉を通るごはんの感触が心地いい。
「うぅ…美味しい…」
私は泣きながら食べ物を詰め込む。
次々に食べ物を詰め込み、後のことを考えてお水をガブガブと喉に流し込む。
ほんとはお水なんて飲みたくない。
こんなにガブガブと飲みたくない。
このお水のせいで食べ物を食べられなくなるから。
でもこのお水を飲まなければ後で後悔することを知っている。
だから飲まなければならない。
食パンを2枚オーブントースターから取り出し、急いで次の2枚をオーブントースターに入れた。
もうバターは後でいい。
とにかく急がなければ。
焼き上がった食パンを口に詰め込む。
バターの美味しさを泣きながら味わう。
「うぅ…うー…」
泣きながら食パンを詰め込み、お水を流し込む。
早く。
早くしなければ。
食パン2枚をすぐに食べ終わり、だんだん私のお腹がパンパンになってきた。
まだだ。
まだまだだ。
さっきオーブントースターにいれた食パンが焼き上がり、私は急いでキッチンから持ってきた。
まだだ。
まだ詰め込める。
どんどん食パンを口に詰め込み、さらにお水を飲む。
どうしよう。
この食パンを食べ終わったらもう食べる物がない。
口を動かしながら次に食べるもののことを考える。
何かなかったか。
あ!そうだ!
袋のインスタントラーメンがあった!
私は急いで立ち上がり、キッチンにあるワゴンを漁った。
「あった!」
袋のインスタントラーメンが2袋。
私の救世主のように見える。
「早く。早くしなきゃ。」
私はブツブツと言いながら鍋にお水を入れた。
「早くー早くー」
私は足踏みをどんどんと鳴らしながらお湯が沸くのをじりじりと待った。
早くしなきゃ!
もうきっと消化が始まっている!
早く!早くしなきゃ太っちゃう!
早く!!!
お湯が沸くまでの時間、その数分の時間がものすごく長く感じる。
「もう!!早くーーー!!」
私は一人で地団駄を踏み、涙を流した。
「早くしないと!もーー!!!」
ラーメンをゆでる時間も忌々しい。
早くお腹に詰め込まなければならないのに。
やっと出来上がったラーメンをズルズルと飲み込む。
熱くて早く食べられないから氷を入れた。
ラーメン2袋分の麺を無事に胃袋に詰め込んだとき、限界がやっとやってきた。
「…う…」
今だ。
私は大きめのスプーンを右手に握りしめ、トイレに駆け込んだ。
早く!
早く!
その大き目のスプーンにトイレットペーパーをぐるぐると何重にも巻き付け、口の奥にぐっと押し込む。
「おえっ…うぅ…おえーーーーー!!!」
ジャバジャバと口の中からさっき食べたものが出てくる。
大量のお水と共に。
まだ。
まだだ。
まだ食パンが出てきていない。
「うぅ…うえっ!!」
私は自分の口に中から出てきた嘔吐物を目で確認する。
まだだ。
最初に食べた“ちゃんとした朝食”がまだ出てきていない。
「う…うえーーー!!」
最初の“ちゃんとした朝食”の時はお水をがぶ飲みしなかったからなかなか出てこない。
やっぱり“ちゃんと”お水をがぶ飲みしないとこうなるんだ。
私は胃から絞り出すように何度も嘔吐した。
スプーンを口の中のとあるポイントに押し付けながら。
「うぅ…うー…」
ちゃんと最後まで絞り出さなければ困る。
この胃袋に残っている食べ物は合計何キロカロリーあるんだろうか。
最後まで絞り出さなければ。
私は胃液しか出なくなるまで吐き続けた。
涙とよだれでぐちゃぐちゃになった顔をトイレットペーパーで乱暴に拭い、ふらふらになった足取りでトイレから出る。
隣にある洗面台に立ち、顔を洗い口をゆすぐ。
「…はぁ…」
今日も始まってしまった。
もうこれで今日も地獄の日になることは確定した。
私は今日この後何回これを繰り返すんだろう。
ペットボトルに少し残ったお水をゴクリと飲む。
急いで着替えてコンビニに行こう。
求人誌を見に行くなら今しかない。
この後泥のように動けなくなる時間がすぐにやってきてしまうから。
私は急いで部屋着から着替えてドアから飛び出した。
私の部屋の下はローソンだ。
もう買わないぞ。
さっき食べ切ってしまった食パンだけは買おう。
コバくんに食パンがないことがバレてしまわないように。
でもそれ以外は買わない。
もうやらないんだから。
私はそれが無駄な決意だと知りながらコンビニに向かった。
新しく出ていた求人誌とさっき食べ切ってしまった食パンを買い、他の物には目をやらずに部屋に戻る。
「ほら。もう大丈夫だ。」
私は朦朧とし始めた意識のまま、買ってきた求人誌をパラパラとめくった。
「バーテンダーは…あるかなぁ…」
だんだん身体が泥のようになっていく。
ドロドロと溶けていくような感覚に襲われる。
意識がどんどん遠のいていく。
「あぁ…だめだ…」
重くなっきた瞼。
座っていられないくらい力が抜けていく身体。
目の前が歪んでくる。
全てがぼやけて見える。
「…きたな…」
私はテーブルの横にどさりと倒れこんだ。
「あぁ…もう死にたい…」
今日こそは止めようと思ったのに。
今日こそは予定通り過ごそうと決めたのに。
私は最低だ。
このまま死んでいしまいたい。
私は泥のようになってしまった身体と意識に負けてしまい、目をつぶった。
きっと目を覚ましたらお腹が鳴るんだ。
グーーッと音が鳴るんだ。
その音は第2ラウンドが始まる音だ。
今日も地獄の日が始まってしまった。
つづく。
第2章のはじまりのご挨拶
このページを開いてくださりありがとうございます!
今貴方はどのような気持ちでこのページを読んでいらっしゃるのでしょうか?
私はドキドキしながらこの文章を綴っております。
申し遅れました。
このブログの著者、ゆっきぃこと藤山幸江と申します。
目の前の貴方がどのようにしてこのページを開くことになったのか、私にはわかりません。
そして私もなぜこの文章を綴ることになったのか、よくわかっておりません。
今貴方がその場所にいるのはなぜですか?
きっといろんな出来事があって、いろんな出会いがあって、いろんなやりとりがあって、いろんな想いが交錯して、貴方は今そこにいるんでしょうね。
私は今この文章を自宅のテーブルの上で綴っています。
横浜にある居心地の良い自宅で。
第1章を読んで下さった貴方はもうご存知だと思いますが、私は過去にソープ嬢でした。
所持金僅かな状態で東京から関西に逃げ出し、滋賀県の雄琴という場所に辿り着きました。
私は死ぬ気で飛び込んだ世界で皮肉にも全身で生きました。
そしてどん底に落ちてしまうかと思いきや、なぜか私は助けられたのです。
危ない世界と背中合わせの場所でなぜか私はたくさんの人たちに親切にされ、たくさんの人たちに助けられ、ソープランドの世界から清々しい気持ちで卒業することができました。
今思ってもこれは奇跡のような出来事です。
これから始まるのはその後のお話し。
助かったのは奇跡のような出来事だったということになかなか気付けない、22歳の小娘ゆきえの物語。
死ぬ覚悟でいたのに死ねなかった小娘。
『生きる』がまだまだわからない、自分が大嫌いで仕方がない、自分が許せなくて仕方がない、そんな小娘ゆきえののたうち回る物語。
自分が嫌いで仕方がなかった私が、いつ死んでもいいやと思っていた私が(なんなら早く死にたいと思っていた)、今こうやって横浜の居心地の良い自宅でこの文章を綴っているのは奇跡です。
そして大嫌いで仕方がなかった私を、そのまま大好きになっているのもきっと奇跡。
私はどうしてここにいるんだろう?
私はどうしてこうなったんだろう?
私は今、流れ流れてここにいます。
理由なんてわかならいけど、私は毎日『生きて』います。
最愛の夫と最愛の娘と共に幸せに。
私は今こうしてここで幸せに生きているのが不思議でなりません。
もしかしたらこの物語の中に、いまこうして幸せに生きていられる理由がでてくるかもしれませんね。
こうやって文章を綴れることに感謝しつつ、そしてこうやって読んでくださる貴方がいてくれることに感謝しながら、物語をはじめたいと思います。
どうぞ小娘の華麗なるのたうち回り劇を楽しんでいってください。
最期まで読んでくれたら嬉しいな。
(最後まで書けるのか?)
ではどうぞ!↓↓↓
① - 私のコト ~小娘有里のその後 第2章バーテンダー編~
*この物語は私の実体験を綴ったほぼほぼノンフィクションのお話です。
ただ、私の記憶だけを頼りに書いていますので、時系列が曖昧だったり、セリフも後付けだったりすることもあります。
起こったエピソード、仮名ではありますが登場人物は全てノンフィクションです。
*まだ第1章をお読みでない方はこちらからどうぞ。↓