①
「ゆきえー。行ってきまーす!」
「うん。いってらっしゃい。頑張ってね。」
「え…と…今日は…どないしたらええ…?帰って来てもええのん…?」
コバくんが遠慮がちに聞く。
「え…とぉ~…うん。…ええよ。待ってる。」
迷いながら「ええよ」と答える私。
夜になると淋しいから。
「ほんま?!やった!!ありがとう!ゆきえ、ありがとう!!じゃ!いってきまーーーーす!!ゆきえ、ゆっくりな。焦らんとな!お弁当もありがとう!!じゃ!!」
満面の笑みで玄関を出ていくコバくん。
相変わらずよく懐いている子犬のようだ。
「気をつけてー!」
バタン。
「ふぅ…」
ドアが閉まると同時に溜息をつく。
今日も帰って来ていいと言ってしまった。
だから夕飯のことを考えなくてはいけない。
「…どうしよっかなぁ…」
時計を見るとまだ8時半だ。
私はこれからの時間の過ごし方を頭の中で組み立てる。
「まずお茶碗を洗って…それから求人誌を見て…それから…」
滋賀県の雄琴からここ塚口に引っ越してきてもう10日ほど経つ。
引っ越して来た当初はコバくんとは一緒に暮らさないつもりでいた。
私は1人の時間が持てることにワクワクして、夕飯の支度やお弁当から解放されることを喜んでいた。
が…
引っ越し当日、荷物を降ろし、もろもろの片付けが終わった時には夜になっていた。
コバくんは淋しそうな顔をして「今夜だけ泊まったらあかん?」と聞いた。
私は疲れた淋しそうな顔をしたコバくんを帰すことができず、「今夜だけええよ」と泊めてしまった。
それからもう10日。
その10日の間、私が1人で朝まで過ごしたのはたった1日だけという情けない毎日を送っている。
仕事もまだ決まらず、私は不安な毎日を過ごしていた。
この1人になる時間が曲者だ。
まだ今日は始まったばかりで私の頭の中は今日の予定を立て始めているけれど、この予定通りに1日を過ごせたことが1度もない。
「お茶碗を先に洗ってしまおう。」
独りごとを言いながらキッチンに立つ。
新しい部屋のキッチンは玄関を入ってすぐ右側に位置している。
5畳ほどのダイニングキッチンの床はフローリング調のクッションマットが敷いてありなんだか安っぽい作りだ。
前のお部屋と違ってキッチンに窓もなく、とても暗い。
昼間でも電気を点けなきゃならないくらい暗かった。
このキッチンに立つと暗い気持ちが増す。
頭上の蛍光灯の明かりが寒々しくて、今の私の不安な気持ちをあおる。
カチャカチャと無言でお茶碗を洗いながら、むくむくと湧いてくる衝動を無視しようと懸命に頑張る。
口を一文字に閉め、なんとかこの衝動が治まらないかと一点を凝視する。
「…ふぅ…」
お茶碗を洗い終え、タオルで手を拭く。
「さてと…新しい求人誌が出ていないかコンビニに見に行こうかな…」
独り言を言いながら、私は口にした言葉とは違う行動に出はじめる。
頭では求人誌を見に行こうとしているのに、手は冷蔵庫を開けている。
そして目で食べ物を物色しはじめる。
小さな炊飯器にごはんが炊けていることは知っている。
そして昨日買ってきた6枚切りの食パンが5枚残っていることもわかっている。
昨日食べたくてもガマンした唐揚げも冷蔵庫の中に見つけてしまった。
頭の中ので考えていることなかったことしたい。
今考えていることをサッと消し去りたい。
「納豆と…スープと…」
ちゃんと朝ご飯を食べよう。
きちんとした朝食を。
ごはんと納豆とスープとサラダ。
コバくんに作ったお弁当の残りのおかずを数品。
私はテーブルにランチョンマットをきちんと敷いて、朝ごはんを綺麗に並べて手を合わせた。
「いただきます。」
今日こそはちゃんとできますように。
ちゃんと美味しく朝ごはんが食べられますように。
そして朝ごはんを食べ終わったら私の頭の中の予定通りに過ごせますように。
切実な思いで朝ごはんを食べる。
「美味しいなぁ…」
一口目の納豆ごはんがとてつもなく美味しい。
スープを含むと温かくてほっこりする。
「はぁ~…」
わざとらしく“美味しい”を全身で表現する。
それもこれもこの後にやってきそうな予感がする地獄の時間をなんとか回避するためだ。
「美味しいなぁ…」
何度も何度もわざと口にする。
今日こそはあの時間がやってきませんように。
納豆ごはんを半分ほど食べ、スープを飲み干し、お弁当の残りのおかずを何口か食べた。
さっきまでの空腹が満たされてきてしまった。
食べているんだから当たり前の話しだ。
空腹が満たされてきてしまった。
あぁ…
空腹ではなくなってきてしまった。
目を見開き、もぐもぐと残りの納豆ごはんとおかずを食べる。
口を動かしながら、私は次に食べるものをいつにまにか頭の中で考え始めていた。
まずはお水を飲まなければ。
ガブガブと飲んでおかなければあとで辛い目にあう。
口に入っているこれを飲み込んだら空いている2ℓのペットボトルにお水をたっぷりと入れて飲まなければ。
それからさっき見た唐揚げをレンジで温めて、炊飯器に入っているごはんをどんぶりに全部入れてこよう。
それからそれを食べている間にオーブントースターで食パンを焼いて次の準備をしておこう。
バターは…さっき冷蔵庫にあったのを見た。
山盛り乗せよう。
それから…
気づくとまた始まっていた。
いつのまにか始まっていた。
いつもの地獄の時間が。
私は“ちゃんとした朝ごはん”を食べ終わり、空いた食器を急いでキッチンに運び、大急ぎでお水をがぶ飲みした。
後で困らないように。
「はぁはぁ…」
お水でべちゃべちゃになった口の周りを手の甲で拭い、冷蔵庫から数個の唐揚げを取り出しレンジにかける。
ごはんを山盛りによそい、食パンにバターを山盛り乗せてオーブントースターにいれた。
急がなきゃ。
急いで食べ物を詰め込まなければ。
そうしないと最初に食べた“ちゃんとした朝食”の消化が始まってしまう。
消化させるわけにいかない。
だって消化してしまったら太ってしまうじゃないか。
私は『今の私はきっと鬼の様な形相をしているんだろう』とうっすらと思いながら、目を見開き口の中にごはんを詰め込んだ。
口いっぱいに詰め込んだごはんが美味しい。
温めた唐揚げをまだごはんが入っている口の中に押し込む。
唐揚げとごはんが口の中で混ざってすごく美味しい。
喉を通るごはんの感触が心地いい。
「うぅ…美味しい…」
私は泣きながら食べ物を詰め込む。
次々に食べ物を詰め込み、後のことを考えてお水をガブガブと喉に流し込む。
ほんとはお水なんて飲みたくない。
こんなにガブガブと飲みたくない。
このお水のせいで食べ物を食べられなくなるから。
でもこのお水を飲まなければ後で後悔することを知っている。
だから飲まなければならない。
食パンを2枚オーブントースターから取り出し、急いで次の2枚をオーブントースターに入れた。
もうバターは後でいい。
とにかく急がなければ。
焼き上がった食パンを口に詰め込む。
バターの美味しさを泣きながら味わう。
「うぅ…うー…」
泣きながら食パンを詰め込み、お水を流し込む。
早く。
早くしなければ。
食パン2枚をすぐに食べ終わり、だんだん私のお腹がパンパンになってきた。
まだだ。
まだまだだ。
さっきオーブントースターにいれた食パンが焼き上がり、私は急いでキッチンから持ってきた。
まだだ。
まだ詰め込める。
どんどん食パンを口に詰め込み、さらにお水を飲む。
どうしよう。
この食パンを食べ終わったらもう食べる物がない。
口を動かしながら次に食べるもののことを考える。
何かなかったか。
あ!そうだ!
袋のインスタントラーメンがあった!
私は急いで立ち上がり、キッチンにあるワゴンを漁った。
「あった!」
袋のインスタントラーメンが2袋。
私の救世主のように見える。
「早く。早くしなきゃ。」
私はブツブツと言いながら鍋にお水を入れた。
「早くー早くー」
私は足踏みをどんどんと鳴らしながらお湯が沸くのをじりじりと待った。
早くしなきゃ!
もうきっと消化が始まっている!
早く!早くしなきゃ太っちゃう!
早く!!!
お湯が沸くまでの時間、その数分の時間がものすごく長く感じる。
「もう!!早くーーー!!」
私は一人で地団駄を踏み、涙を流した。
「早くしないと!もーー!!!」
ラーメンをゆでる時間も忌々しい。
早くお腹に詰め込まなければならないのに。
やっと出来上がったラーメンをズルズルと飲み込む。
熱くて早く食べられないから氷を入れた。
ラーメン2袋分の麺を無事に胃袋に詰め込んだとき、限界がやっとやってきた。
「…う…」
今だ。
私は大きめのスプーンを右手に握りしめ、トイレに駆け込んだ。
早く!
早く!
その大き目のスプーンにトイレットペーパーをぐるぐると何重にも巻き付け、口の奥にぐっと押し込む。
「おえっ…うぅ…おえーーーーー!!!」
ジャバジャバと口の中からさっき食べたものが出てくる。
大量のお水と共に。
まだ。
まだだ。
まだ食パンが出てきていない。
「うぅ…うえっ!!」
私は自分の口に中から出てきた嘔吐物を目で確認する。
まだだ。
最初に食べた“ちゃんとした朝食”がまだ出てきていない。
「う…うえーーー!!」
最初の“ちゃんとした朝食”の時はお水をがぶ飲みしなかったからなかなか出てこない。
やっぱり“ちゃんと”お水をがぶ飲みしないとこうなるんだ。
私は胃から絞り出すように何度も嘔吐した。
スプーンを口の中のとあるポイントに押し付けながら。
「うぅ…うー…」
ちゃんと最後まで絞り出さなければ困る。
この胃袋に残っている食べ物は合計何キロカロリーあるんだろうか。
最後まで絞り出さなければ。
私は胃液しか出なくなるまで吐き続けた。
涙とよだれでぐちゃぐちゃになった顔をトイレットペーパーで乱暴に拭い、ふらふらになった足取りでトイレから出る。
隣にある洗面台に立ち、顔を洗い口をゆすぐ。
「…はぁ…」
今日も始まってしまった。
もうこれで今日も地獄の日になることは確定した。
私は今日この後何回これを繰り返すんだろう。
ペットボトルに少し残ったお水をゴクリと飲む。
急いで着替えてコンビニに行こう。
求人誌を見に行くなら今しかない。
この後泥のように動けなくなる時間がすぐにやってきてしまうから。
私は急いで部屋着から着替えてドアから飛び出した。
私の部屋の下はローソンだ。
もう買わないぞ。
さっき食べ切ってしまった食パンだけは買おう。
コバくんに食パンがないことがバレてしまわないように。
でもそれ以外は買わない。
もうやらないんだから。
私はそれが無駄な決意だと知りながらコンビニに向かった。
新しく出ていた求人誌とさっき食べ切ってしまった食パンを買い、他の物には目をやらずに部屋に戻る。
「ほら。もう大丈夫だ。」
私は朦朧とし始めた意識のまま、買ってきた求人誌をパラパラとめくった。
「バーテンダーは…あるかなぁ…」
だんだん身体が泥のようになっていく。
ドロドロと溶けていくような感覚に襲われる。
意識がどんどん遠のいていく。
「あぁ…だめだ…」
重くなっきた瞼。
座っていられないくらい力が抜けていく身体。
目の前が歪んでくる。
全てがぼやけて見える。
「…きたな…」
私はテーブルの横にどさりと倒れこんだ。
「あぁ…もう死にたい…」
今日こそは止めようと思ったのに。
今日こそは予定通り過ごそうと決めたのに。
私は最低だ。
このまま死んでいしまいたい。
私は泥のようになってしまった身体と意識に負けてしまい、目をつぶった。
きっと目を覚ましたらお腹が鳴るんだ。
グーーッと音が鳴るんだ。
その音は第2ラウンドが始まる音だ。
今日も地獄の日が始まってしまった。
つづく。