目をうっすらと開けると、目の前にはゆがんだホログラムのような風景が見える。

ぼやけた視界。

まるで全てが幻影のように見える。

今私は眠っているのか起きているのかまるでわからない。

この世界は全てが幻影でできているんだと思わせる。

ぼんやり見えている風景はまぎれもなく自分の今の部屋だということはわかっている。

でも全てがホログラムのようだ。

 

頬に絨毯の感触がある。

すぐ目の前にはぼんやりとテーブルの足が見えている。

スッと目線を部屋の入口にやると人影が見えた。

誰だ?

え?

誰だ?

 

「…誰?…」

 

小さな声で呟く。

あまりにも力が入らなくて声も少ししかでない。

黒い影がぼんやりと部屋の入口から入って来る。

 

誰?

誰なの?

 

ぼんやりとした視界はぐにゃりと歪み、身体は相変わらず泥のようで動けない。

あぁ…

もう目も開けていられない。

黒い影が近づいてきた。

あぁ…

もうダメだ…

 

はっ!

 

…夢だったのか…

 

目の前にはさっきと同じようなぼんやりとした視界が広がっている。

ぐにゃりとした自分の部屋。

やっぱりホログラムのように見える。

頬の絨毯の感触もさっきと同じだ。

すぐ目の前にはさっきとまったく同じようにぼんやりとテーブルの足が見えている。

 

横に向けていた身体を仰向けに変えるとぐにゃりとした天井が目の間に広がった。

ぐにゃ~んとゆっくり歪んでいく天井。

朦朧とする頭。

身体が重い。

 

「ゆきえー」

 

誰かが呼ぶ声がする。

「え?」と小さな声で呟く。

小さな声しか出ないから。

 

「ゆきえー。早くしなさーい。」

 

お母さんの声だ。

なんで?なんでお母さんがここにいるの?

 

部屋の入口に目をやると誰もいない。

ただただぼんやりと入口の先のキッチンがなんとなく見えているだけだ。

 

「ゆきえー。どうしたのー?」

 

やっぱりお母さんの声だ。

どうして?

ここに私が暮らしていることを知っているはずがないのに。

 

あぁ…

身体が動かない。

お母さんの呼びかけに答えなきゃ。

どうしてここにいるのかを聞かなきゃ。

そしてごめんなさいと謝らなければ。

お母さん、ごめんなさい…

 

はっ!

…また夢…?

 

目の前にはさっきとまったく同じゆがんだ天井が見える。

まぎれもなく私の部屋でさっきとまったく同じ場所で仰向けに寝ている。

ぐにゃりと回転し始める天井。

ウワンウワンと鳴る耳鳴り。

めりめりと床に身体が沈み込んでいきそうだ。

溶ける。

身体が溶けていく。

このまま溶けてなくなっていくのかもしれない。

あぁ…

溶ける…

溶ける…

身体がドロドロになっていく…

 

 

はっ!

…また夢…

私はさっきとまったく同じ体勢で天井を見上げていた。

 

「…はぁ…」

 

ゆっくりと身体を起き上がらせる。

身体が重い。

頭が痛い。

喉が渇いている。

さっきお腹の中のものを全部吐き出したんだから当たり前のことだ。

 

盛大な食べ吐きをした後は必ずこういうことが起きる。

夢なのか現実なのかわからない、どろりとした世界を体験する。

まぎれもなくこの私の部屋で、同じ場所で寝ている姿で何度もおかしな体験をするのだ。

ドラッグをやっている人はこういう体験をしているのかもしれないといつも思う。

胃がパンパンになるまで食べ物を詰め込み、すぐに吐き出すという行為は脳の機能をおかしくさせるんだろうなぁ…とぼんやりと考える。

食べ吐き後のこの感じが割と好きだったりする自分に嫌悪していた。

 

身体がとてつもなく怠い。

頭がガンガン痛む。

さっきまでのドロドロと溶けていってしまいそうな感覚はもうなく、ただただ身体が怠くて頭が痛む。

 

「…ふぅ…」

 

私は重い身体をなんとか立ち上がらせて冷蔵庫に向かった。

冷たく冷えたお水をガブガブと飲んだ。

 

これからしばらくの間は空腹を感じずにすむことを私は知っている。

胃が機能しない時間だ。

ただ、この時間はほんのわずかだということも知っていた。

間もなくするとお腹からぐぅという再び地獄のはじまる音が鳴り始める。

 

「…バーテンダーの募集は…」

 

倒れこむ前に開いていた求人誌のページをまた淡々と覗き込む。

第2ラウンドのゴングが鳴り始める前にちゃんと見なければ。

 

求人誌のナイトページのコーナーをくまなく見る。

バーテンダーの求人はだいたいどこの店も経験者を募集していた。

そして私が望んでいるようなれっきとしたバーの求人はなかなかなく、ダイニングバーやカフェバーのようなところの求人がほとんどだった。

 

「経験者か…」

 

私はちゃんとお酒の勉強もしながらバーテンダーをやりたいと思っていた。

お酒の歴史もカクテルの逸話もちゃんと知りたい。

もちろんカクテルを作る技術も磨きたい。

さっきまで地獄のような時間を過ごしていたことをすっかり忘れたかのように、私はバーカウンターの中で華麗にシェイカーを振る自分の姿を想像していた。

 

求人誌のバーテンダー募集は毎回少なく、だいたいがフロアレディの募集であふれていた。

 

「…今回もなしかぁ…」

 

自分が思うような店の募集が見当たらない。

ソープランドを辞めて10日以上が経つ。

私の郵便貯金はもう残り僅かで、お店を辞める時に頂いた餞別が13万円ほど。

残金が心許ない金額になり、しかも思うような働き口がなかなか見つからない。

気持ちが焦り、K氏に渡した700万円を惜しかったとすら思い始めていた。

 

トゥルルルル…

トゥルルルル…

 

コバくんがひいてくれた家電が鳴る。

コバくんがなぜか持っていた電話回線があり、携帯電話を一旦解約した私の為に家電を設置してくれたのだ。

 

「もしもし?」

 

ボーっとした頭で電話に出る。

 

「あ、ゆきえ?どないしてる?」

 

電話の相手はコバくんだ。

コバくんはこの塚口に引っ越してきてから毎日お昼に電話をくれるようになった。

友達も誰もいない私を心配してのことだ。

 

「あ、うん。まぁなんかいろいろやってるわ。」

 

いろいろ?

ただ食べて吐いてドロドロになって求人誌を眺めただけだ。

 

「そうか。ゆきえ焦らんとな。ゆっくりでええやんか。お金はなんとかなるよ。ゆっくりできてるんか?休めてないやろ?」

 

コバくんは毎日私にそう言ってくれる。

『焦るな』と。

『ゆっくりしろ』と。

 

「あー…うん。わかってる。そうやね。焦ってもしゃーないしね。いつもありがとう。」

 

「うん。俺、ゆきえがゆっくりしてくれるのがええわ。すごいことやってのけたんやから、ちょっとくらいゆっくりしたってええやろ?」

 

「うん。うん。そうやね。ありがとう。わかった。」

 

「あ!なんか呼ばれとるわ!ごめん!じゃまた夜な!今日は…多分19時過ぎやと思うわ!はよ会いたいわぁ。ゆきえ、大好きやで!」

 

「うん。ふふふ。ありがとう。待っとるわ。」

 

「うん!ほなな!ゆきえー!」

 

「わかったわかった!あははは!」

 

ガチャ。

 

「…ふぅ…」

 

焦るな。

ゆっくりしろ。

のんびりでいい。

 

私が一番怖い言葉。

ゆっくりするってどうやるんだろう?

焦るなってどういうことだろう?

のんびりってなんだろう?

 

私はいてもたってもいられなくなり、お財布をつかんで外に出た。

 

「…夕飯の買い物に行くだけだから。」

 

誰に言い訳をしてるんだろう。

1人でブツブツと呟きながらマンションの階段を降りる。

 

「ぐう」とお腹の音が鳴り、私は絶望的な気持ちになった。

 

「…夕飯の買い物をするだけ。それだけだから。」

 

口ではそう言いながら、頭の中には菓子パンやカツ丼やパスタやケーキのことを考え始めている。

 

「買わないよ。絶対買わないんだから。」

 

塚口駅前にあるスーパーに向かいながら、ブツブツと呟く。

絶対に買ってしまうことを知りながら。

私の口から出る言葉と頭の中で思っていることはいつもちぐはぐだ。

口から出る言葉と行動もちぐはぐだ。

 

気付くと私はスーパーのレジに並んでいた。

カロリーの高そうな食べ物で山盛りになったカゴを、どんとレジの台に乗せてソワソワと会計を待っていた。

 

早く帰りたい。

早くこの食べ物を口いっぱいにほおばりたい。

そうしないと大変なことになる。

私が最悪で無為で存在になんの価値もないことを再確認してしまう。

そして私の未来が絶望的だという証拠を次々と見つけてしまうかもしれない。

早く。

早く。

 

私は急いでお金を払って駆け足で部屋に戻った。

 

部屋のドアを開けるとすぐに2ℓのペットボトルにお水をたっぷり入れ、菓子パンの袋を引きちぎり口に詰め込んだ。

 

第2ラウンドのゴングが大きく鳴り響いた。

 

 

 

どろどろの状態で目を覚ました私はまた何度も幻覚を見、幻聴を聞いた。

そしてなんとか開けた目で時計を見ると17時になっていた。

 

「…はぁ…」

 

また一日をこうやって過ごしてしまった。

もう死んだ方がいいんだろう。

こんなクズはこの世にいない方がいい。

 

「…さ…夕飯作らなきゃ…あとお風呂掃除と掃除機もかけて…」

 

コバくんが帰ってくる。

だから今日は死ねない。

夕飯を作って掃除をしてお風呂を沸かして待っていることだけが、私のまだ生きていてもいい理由のような気がする。

 

お風呂掃除をして掃除機をかけていると、段々自分が人並みな女のような気持になってくる。

ボロボロだった身なりを整え、お米を砥いでいると、まるで自分が『普通の女』になったような錯覚に陥る。

ただのクズなのに。

 

ボーっとした頭のまま、私は夕飯の献立を考え黙々と料理にとりかかる。

今の私はコバくんが帰ってきてくれるから生きているようなものだった。

このままコバくんが帰って来なかったら私は何度あの地獄の時間を過ごすことになるんだろう。

 

料理に没頭し、気づくと18時半になっていた。

 

「あ…先にお風呂に入ろう。」

 

私は料理をほとんど作り終え、お風呂の支度をして狭い湯船に身体を沈めた。

 

今日もどうしようもない時間を過ごしてしまった。

明日こそはちゃんとしたい。

こんなことやっていたらどんどんダメになる。

早く仕事を決めなければ。

そして早く自分の居場所を見つけなければ。

 

湯船につかりながら、私は今日の猛烈な反省と明日の決意を心に誓う。

こんな誓いなんてなんの意味もないことを知りながら、明日こそはと強く思う。

 

「…うぅ…うぅ…ごめんなさい…ごめんなさい…」

 

誰に謝ってるんだろう。

コバくんに?

親に?

K氏に?

慕ってくれたみんなに?

 

「うー…ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」

 

食べ吐きの症状が明らかに悪化している。

罪悪感も日に日に増す。

早く死にたい。

生まれてこなければよかった。

何度も何度もそんな思いが私を襲う。

 

「うーーー…」

 

部屋にはまだ私1人なのに、しかもお風呂の中なのに、声を一生懸命殺して泣く。

泣き声すら大きく出してはいけないような気がして。

 

「ただいまーーー!!!」

 

その時玄関の方から元気な大きな声が聞こえてきた。

 

「ゆきえー?お風呂-?ただいまーーー!!」

 

明るい元気な声。

私は急いで涙を拭き、元気そうな声を頑張って振り絞る。

 

「おかえりーー!お風呂先に入っちゃったー!ちょっと待っててー!」

 

「うん!ゆっくり入ってねー。覗いていいーー?」

 

「あははは。やめてっ!」

 

「えー?ダメー?あははは。」

 

「ダメだよ!あははは。」

 

私は「あははは」と笑いながら涙を流していた。

今日の私の姿をコバくんはまるで知らない。

知らないから好きでいてくれるんだ。

絶対に知られてはいけない。

隠し通さなければ。

 

「ゆきえーお腹空いたよー!」

 

「ちょっとー!そんなこと言われたらゆっくり入ってられへんやんかー!」

 

「あははは。ごめーーん!はよ顔みたいわー。でもゆっくり入ってやぁ。」

 

「アホか。あははは。」

 

さあ。

コバくんが知っている私の顔にならなければ。

さっきまでの私の姿を微塵も感じさせないように今夜も頑張ろう。

 

 

 

つづく。

 

 続きはこちら↓

③ - 私のコト第2章 ~小娘有里のその後 バーテンダー編~

 

 

 前回のお話しはこちら↓

① - 私のコト ~小娘有里のその後 第2章バーテンダー編~

 

ご挨拶はこちら↓

第2章のはじまりのご挨拶 - 私のコト ~小娘有里のその後 第2章バーテンダー編~

 

 

第1章ソープ嬢編から読みたい方はこちら↓

 はじめに。 - 私のコト~私のソープ嬢時代の赤裸々自叙伝~